ヂヤイ神楽について
ヂヤイ神楽保存会とは
ヂヤイ神楽とは2003年7月下旬から2004年1月にせんだいメディアテークで行われた「架空の郷土芸能作ります」ワークショップにて音楽家 三輪眞弘氏の指導のもと「逆シミュレーション音楽」という手法を用いて制作された架空の郷土芸能です。ワークショップでは郷土芸能の自体の制作は無論のこと、その郷土芸能の歴史やいわれについても物語を作りをしました。また、ワークショップでは実際に2004年1月の3日間、神楽を上演しました。
しかし、未だ、完成に至っていないと考え、ヂヤイ神楽を完成を目指し、ワークショップに参加したメンバーを中心に、結成したのがヂヤイ神楽保存会です。この名称はワークショップの上演の際に出演者(ワークショップ参加者)を指して用いた架空の組織でしたが、ここに現実の集団として旗揚げしました。保存会の目的は最終的には完成型としてのヂヤイ神楽を上演することですが、神楽に関する記述もまとめることによって一つの書籍として出版するということも夢見て活動しています。もちろんこのサイトもその活動の一環です。
ヂヤイ神楽関連ドキュメント
ヂヤイ神楽(付)算額奉納
その昔、宮城県北部から岩手県一関市周辺地域で行われていたと伝えられる奇習「ヂヤイ神楽」の存在とその驚くべき全容が近年の様々な研究によって解明されつつある。そのきっかけとなったのは北陸地震で倒壊した三ノ輪神社の床下から発見された奇妙な3枚の算額だった。一見祭式の次第を定めた昔ながらの覚え書きに見えるそれにはしかし、高度な数学的法則を用いた動きと音楽を生み出す不思議な手法(アルゴリズム)が詳細に描かれていたのである。それは、ジャンケンにも似た3つの状態の組み合わせによる単純な規則によって極めて複雑な振る舞いを生み出す「蛇居拳算(じゃいけんざん)」と名付けられた算法で、幾何学問題に代表される、算額が扱う様々な問答の慣習とは別次元の、当時としては世界的にも例をみない極めて特異なものと言えるだろう。その発祥の背景には、東北地方を代表する和算の大家、千葉胤秀や、若くしてその力量を認められながら非業の死を遂げた伝説の天才、鷹嘴侍相之介が深く関係していると見られている。それにしてもこの時代に、現代数学を先取りするかのような、乱数生成アルゴリズムに似た理論が、突如この東北地方にどのようにして生まれ得たのかは現在でもまったく謎のままで
ある。
ヂヤイ神楽 架空の記事
■地震で倒壊の神社 100年ぶりに地鎮の舞
昨年7月に地震によって倒壊した仙台市内の三ノ輪神社(みのわ)で百年ぶりに神社伝承の祭りが復活し、神楽が披露された。
これは地元商工会議所青年部が呼びかけ実現したもので、地元有志や仙台市立箕輪小学校の児童を中心に昨年春より準備し、約400人が参加した。この祭りのヂヤイ神楽は古い神楽を型どったもので、地響きのような太鼓の力強さが印象的だ。
この祭りの復活に中心的に活動してきた「ヂヤイ神楽保存会」会長 三輪眞弘さんは百年近く祭りが途絶えていたので、地域の年長者の家にも何度となく足を運び、祭りの話をたくさん聞いた。特に、ヂヤイ神楽に関してはほとんど記録がなく苦労した。去年7月には地震で境内が全壊してしまったので、祭りを中止しようと何度も思ったが、境内倒壊の際、神楽の資料が見つかったことにはげまされ、地震から早く復興できればと開催に至ったと話し、地震の傷跡の残る境内で地鎮の気持ちを新たにしていた。
三ノ輪神社は今年3月に棟上げ式を行い、8月には新たに建立される予定だ。来年の祭りでは新しい社でこの独特な祭りの神楽を見ることがことができそうだ。
(仙台河南日報 平成十六年一月十日 日刊より)
■”ワザン”で石器時代がミエテキタ
昨年7月、宮城北部地震の際、倒壊した三ノ輪神社境内の撤去作業中に発見された「算額」(*注1)と言われる幅128cm、高さ64cm、厚さ2cmほどの檜でできた木の板。江戸時代に発達した日本特有の数学、「和算」(*注2)の問題や解答が記されたものである。
今回発見された「算額」は3枚。そのいずれもが、現存するいかなる「算額」よりも高度且つ、複雑な理論で記された、鎖国下の日本で当時の中国や欧米を凌駕する数論が誕生した証として、また、その中の一枚に記されている図形が仙台市内や宮城県北部の石器時代の遺構や石器などにみられる文様に酷似していることから、石器時代の文様の謎を解く鍵となるのではないかと、考古学者や地元の郷土史家、和算研究者、など、幅広い分野の専門家が注目し、話題となっている。
□第一部 算額を神社に奉納!? 身近で遠い和算の世界
宮城県内において最も「和算」が盛んだったのは現在の塩竈市だと言われている。塩の神社でも有名な塩竈神社では一関田村藩に和算塾を開き多数の門下生を抱えた千葉胤秀(ちば たねひで/関派の和算家)一門の「算額」が多数奉納されており、今回発見された「算額」も神社に奉納されていたものが偶然、見つかったのだと専門家は言う。
○高原哲弘 山形県立大学理学部数論学科教授の話
(たかはら あきひろ/和算研究者、「続・和算入門」(*注3)の著者。)
「算額」の神社への奉納は、数学の問題が解けたことを神仏に感謝し、益々勉学に励むことを祈願して行われたと思われますが、人の集まる神社仏閣を発表の場とし,難問や問題だけを書いて解答を付けないで奉納するものも現れ、その問題を見て解答を算額にしてまた奉納するといったことが行われました。奉納の始まりは元禄年間頃(17世紀末頃)とも言われていますが、はっきりしたことは解っておりません。
今回発見された「算額」に記されている年号が天和元年(1681年)ということですが、東北で現存する算額のなかでも古いものでも、元禄年間ですので、かなり古い部類のものと言うことができます。
算額を記した人物、高椅蛇居についてですが、塩竈神社に若干7歳で「算額」を奉納した記録が残っている伝説的な和算家、鷹嘴侍相之介(たかのはしじあいのすけ)ではないかと思っています。
奉納の記録から寛永十八年(1641年)生まれと言うことが解りますから、「発微算法」の著書でも知られている代表的な和算家 関 孝和とだいたい同じ時代の人物です。孝和が後に関流として、和算の中核を成すのに対して蛇居は後年、数学史から姿を消してしまいます。
和算の道場が全国各地に作られるようになると、道場間の争いや道場破りなど、武道顔負けの闘争があったそうですから、関流との闘争に敗れた為だとする説(*注4)もまんざら嘘でもないでしょう。まあ、実際のところは研究が始まったばかりで何もわかっていない。つまり、謎の多い人物だと言えるでしょう。
しかし、今回の発見でその実力は孝和にも引けを取らない、いや、凌駕していたと言うことが解ってきました。まだまだ、これら「算額」の解読を進めていかなくてはなりませんが、今、和算研究家はもちろん、愛好家も「誰が最初に解き明かすか。」と、これまでにない盛り上がりを見せています。
□第二部 和算で解明! 石器時代の渦巻き文様
今回発見された「算額」にはいずれも円と直線を組み合わせられた幾何が渦巻き状に配された図が記されていて、いずれも、解答が載っていなかった。この3枚は発見以来、多くの研究者が解析をすすめているが、そんななか、これらの「算額」が単なる数学の問題ではないとする説を唱える人物がいる。東北の石器時代を長年研究している三沢真一 東北文化大学教授。三沢教授はこれら「算額」がすべて、ある石器時代の岩板(がんばん/石に彫刻を施したおまつりの道具)に刻まれた文様の解析を行ったものだと言うのだ。
三沢真一 東北文化大学 国際人文コース 考古学専攻 教授の話
(みさわしんいち/東北地方の石器時代研究の第一人者。石器時代の生活や祭事についての著作多数。代表作に「東北の石器時代」、「岩石信仰考」、「宮城に伝わる祭り」など)
東北一帯の石器時代の遺跡から出土されるものに岩板と呼ばれるものがあります。これはおおむね祭儀の際、何らかの儀式的用途で作られたものだと思われます。その岩板には様々な文様が刻まれているのですが、その中でも最も多いのが渦巻き状の三巴文様です。
渦巻き模様は世界各国の遺跡にも多数発見されており、古代ヨーロッパ文明の遺跡で見られる渦巻状の模様は、外側の開始点が、「誕生」を、中心の終了点が「死」を表します。一度渦をたどって中心の「死」に至っても、また、逆に渦をたどっていけば、誕生に戻ることができわけです。渦は「復活」「再生」の象徴とされています。
また、日本をはじめアジア諸国では古代から、蛇は神の象徴としてとらえられ、主に川や海など水を司る神として信仰されています。これら蛇信仰は後に龍伝説という形に変容しつつも現在に継承されています。この渦巻き文様はそういった蛇信仰によるところが大きいと思われますが、蛇の姿をかたどったものだと考えることができます。
また、三巴文様は国内でも典型的な文様ですが、アイルランドの古代ケルト遺跡にもみられ、その歴史は古く、「永遠」の象徴であるともいわれています。
しかし、私は長年、これら、岩板の文様が単なる装飾ではなく、ある祭儀に関する記述、或いは、描写ではないかと言う仮説を立ててきました。それは石器時代以降の祭儀に使用されたと思われる土器や土偶といった出土物にも、当時の生活を描写したものや、建造物を記したものなど、具体的な目的を持った図や文様が刻まれています。石器時代の岩板はそう言った出土物の原型だと考えています。ですから、この渦巻き状の三巴文様やほかの幾何学文様もまたなにかしらの具体的な事象の記述であると思うのです。
今まで、私はこれら文様が象徴的に古い伝承芸能の中に残っていないか調査をすすめてきました。その調査の過程で傘楽手習帳写本(さんらくてならいちょうしゃほん 以降、写本)という資料に出会いました。この写本には、「蛇居拳算(じゃいけんざん)」と呼ばれる数学的法則により3つの形からなる「傘楽」の踊り方が記述されていました。これは渦巻き状の三巴文様に模したようにも見え、何らかの関連性があるのではと、注目しました。
この写本は
「之、舞踊ノ類ヒナレドモ、甚ダ、点竄術ノ極ナリ 因リテ、雄七 文政壱拾参年 正月 之ヲ写ス」
とあるように文政十三年(1830)に写されたと記されています。この雄七という人物ですが、点竄術(現在で言うところの方程式。和算家 関 孝和が研究、発達させた)という記述がありますので、和算家であったと思われ、この時代の人物としては一関田村藩 算術師範役の関流和算正統七伝千葉雄七胤秀ではないかと推測できます。どう言った経緯でこの原本、或いは、写本をみる機会があったのかは全く解りませんが、胤秀の門人が多く塩竈神社へ算額を奉納していますので、その際、入手したのではないかと容易に推測できます。
しかし、この「傘楽」は現在、残されていません。また、この「傘楽」というものについての記述や、ほかの写本など、「傘楽」に関わる資料は全くもって見つからず、写本は実は胤秀による創作なのではないかと思ってきました。つまり、写本に描かれている様な高度な数学的法則を用いての舞踊というものが前例がないことと、胤秀自身が、当時、天才的と言われるまでの和算家として大成していることから、考案したものの、自らの創作と公言できずに、このような写本として残したのではないかと。実際、この「傘楽」というものがいつ頃から、踊り出されたかと言う記録はまったくありません。地元に残された逸話(*注5)がありますが、寓話の様な話で史実を見いだすのは困難でした。
それが、昨年、倒壊した三ノ輪神社から発見された3枚の算額が謎を説く鍵になったのです。驚くことに、傘楽手習帳写本の原本とおぼしき神社神主の覚書も発見されました。いずれも、科学的手法にて、これら記述とおりに天和元年に偽りがないだろうと証明されています。そのことから胤秀が実際にこの覚書、或いは何らかの写本を写したことが明かになりました。つまり、胤秀はこの傘楽の高度な数学的法則の重要性を見いだし、後世にその存在を示すために覚え書きを記したと、推論できるのです。或は胤秀はこの傘楽を継承しようと尽力していたのかもしれません。
また、今回の覚書にさらに新たな記述を見いだすことができました。それはこの神楽が算額奉納の際に舞われていたことが明らかになったのです。それによって、胤秀が「傘楽」と記したのは「算額奉納とともに行われた神楽」という意味であった可能性が出てきました。
これは宮城県北部から岩手県一関市周辺地域で行われていたと伝えられる奇習「ヂヤイ神楽」との密接な関係を示唆するものです。言い伝えによると、奇習「ヂヤイ神楽」は算額奉納の際に行われたとされています。また、胤秀が活躍した地域とこの言い伝えの残っている地域が一致しているのも、偶然とはいいがたいでしょう。
どうやら文様の隠された秘密を解く鍵は算額奉納とともに行われたという奇習「ヂヤイ神楽」にあるようです。これからはさらにこの奇習について掘り下げた調査と、資料の収集が必要となることと、思われますが、文様の解明に引き続き調査を行っていこうと思っています。
算額奉納とともに行われたという奇習「ヂヤイ神楽」。
この奇習の全容と、石器時代の文様との関連も解明されるのはそう遠い先ではなさそうだ。