「架空の和算」関連年表

A.D. 元号  
718 養老二年 養老令」によりに本の数学の制度が現れた。
970 天禄元年 源為憲は「口遊」を著わし、「九九」が初めて文献に現れる。また「竹束問題」が現れる。
1600頃 慶長五年頃 日本最古の数学書が刊行される。わり算の九九である八算割声が現れる。
1622 元和八年 著者および刊行年の明らかな数学書「割算書」が刊行される。著者は毛利重能。
「諸勘分物」という数学の巻き物が稿本で書かれる。著者は百川治兵衛。
1627 寛永四年 吉田光由は「塵劫記」を刊行する。四巻から成り立っている。以降の日本の数学書の基本の一つになる。生活を題材としたこともあって海賊版が多くでまわった。
1629頃 寛永六年頃 吉田光由は遊戯的な内容を入れて「塵劫記」を刊行する。五巻から成り立っている。
1631 寛永八年 吉田光由は寛永六年版を編集し直して、三巻本として刊行する。
1634 寛永一一年 吉田光由は前回の版の普及版のような「塵劫記」を刊行する。
1639 寛永一六年 今村知商は数学の公式集といえる「堅亥録」を刊行する。
1640 寛永一七年 今村知商は「堅亥録」を児童向けに公式を歌で現した「因帰算歌」を刊行した。鶴亀算の原型が述べられている。
1641 寛永一八年 吉田光由は巻末に答えのない問題である「遺題」を載せて「塵劫記」を全面的に書き直して刊行する。
鷹嘴侍相之介 、現在の宮城県塩釜市に生まれる。(寛永辛巳 2月)
1647 正保四年 鷹嘴侍相之介 、塩竈神社に若干七歳にして算額を奉納する。
1653 承応二年 「塵劫記」の遺題に答えをつけた「参両録」を榎並和澄が刊行する。自らも遺題を出す。その中に十字環の問題がある。
1655 明暦元年 百川忠兵衛は「新編諸算記」を著わす。
1657 明暦三年 柴村盛之「格致算書」を著わす。
初坂重春「円方四巻記」を著わす。
藤岡茂之「算元記」を著わす。集計記号として「玉」が記されている。
1658 万治元年 久田玄哲「算学啓蒙」の覆刻版を刊行する。天元術が入った。
鷹嘴侍相之介「因帰算法諺解」をあらわす。遺題や算額の解答集。
1659 万治二年 山田正重「改算記」を著わす。
1663 寛文三年 村松重清「算俎」を著わす。円周率の計算。
1671 寛文一一年 沢口一之「古今算法記」を著わす。
1673 延宝元年 村瀬義益「算法勿憚改」を著わす。目黒不動の算額について記されている。
1674 延宝二年 関孝和「発微算法」を著わす。
1676頃 延宝五年頃 宮城県北部に関派の和算道場が多く開設された。
1681 天和元年 高橋蛇居 蛇居拳算の三枚の算額を記す。(三ノ輪神社に奉納の記録なし)
1683 天和三年 江戸の村山庄兵衛、栃木県佐野市星宮神社に算額を奉納する。これは現存最古の算額である。
1684 貞享元年 磯村吉徳「増補算法闕疑抄」を著わす。
1685 貞享二年 建部賢弘「発微算法演段諺解」を著わし、関の「発微算法」の解説書を発表した。
1687 貞享四年 持永豊次「改算記綱目」を刊行する。
1689 元禄二年 高橋蛇居 没す?(元禄巳巳 11月)
1690 元禄三年 井関知辰「算法発揮」を刊行し、行列式の展開法を発表する。
建部賢弘「算額啓蒙」の注釈書「算学啓蒙諺解大成」を刊行する
1710 宝永七年 「大成算経」を完成させる。関孝和、建部賢弘、建部賢明の三人が編集にあたった。「算法統宗」「算額啓蒙」などの中国の数学書の形式にならっている。
1712 正徳二年 関孝和の遺稿を荒木村英が「括要算法」として刊行する。
1717 享保二年 田中佳政「数学端記」を著わした。順列組み合わせの問題が刊行された。
1722 享保七年 建部賢弘「弧背術」で三角関数の真数表をあらわす。
建部賢弘「綴術算法」で無限級数展開公式を示す。
1726 享保一一年 中国より「暦算全書」輸入。
1769 明和六年 有馬頼(行ニンベンに童)「拾(王に幾)算法」を著わし、「点竄術」「円理」などの詳しい解説をした。
1775 安永四年 千葉雄七(胤秀)、現在の花泉町清水(流郷清水村〈花泉原邸〉)に生まれる。
1781 天明元年 藤田貞資「精要算法」を著わす。
1802 寛政元年 志筑忠雄「暦象新書」を著わし、西洋の科学を伝える。
1815 文化一二年 坂部広胖「算法点竄指南録」を著わす。「鶴亀算」で鶴と亀がはじめて現れる。
1818 文政元年 4月8日 43才のとき峠村新御組に召出される。(今でいう就職)この頃 から胤秀の熱心さと才能を田村藩主が認め始めた。
1828 文政一一年 雄七54才、12月18日、一関藩七代藩主、田村邦顕公は胤秀の芸が抜群なので 其身一代の士籍(侍)に御取立て二人扶持御扶持(切米三歩下賜)を支給し、一関居住のうえ算術 師範役を仰付られる。 然し胤秀はこれに甘んじることなく益々算術の研鑽を積んだ。
1830 文政一三年 雄七56才、この年の正月、傘楽手習帳写本というヂヤイ神楽の舞いについての稿本を写本。8月には和算の初歩から微分、積分などの高等数学まで自学自習出来るようにわかりやすく、丁寧に解説された数学書『算法新書』を刊行し、当時秘伝主義 に陥っていた和算を全国の和算家や庶民の間にも広め、明治以降の洋算(現代の数学)の基礎を成したのである。
1846 弘化三年 雄七72才、正月11日、師家長谷川善左衛門、家中南新五郎、安倍貞治等の好意を以って門人中より寄進申受け算学道場を建てる。
1849 嘉永二年 2月4日、胤秀没す。行年75才、関量院数観流峯居士。
1857 安政四年 森正門「割円表」を著わす。三角関数表の書。
1872 明治5年 明治政府は世界の学術を取り入れるべく、西洋数学を採用し和算を公教育から禁止した。
**赤字は架空の出来事、青字は千葉胤秀関連の出来事