このページは日頃何となく読んだり、聴いたり、みたりしているものについて、気が向いたらちょっと書いてみています。レコードや本についてはレビューというかたちで紹介するようにしていますが、基本的に自分がその時、どう感じたかなんて言うような、いったいどんな、情報が入っているのかというものでも、書いていきますので、ご了承を。感想などがありましたら、com4jai@macbase.or.jpまでお願いします。
The World of Interactive Music-大垣に集結するコンピューター音楽の最前線
大垣の国際情報芸術アカデミーにおいて国内外から70人を超える参加者を得て行われた「DSPサマースクール2000」の公開イヴェントとして9月16日に三輪眞弘、佐近田展康、ジョエル・ライアン、カール・ストーンといった、コンピューターミュージックの最前線で活躍するアーティストによるライブパフォーマンスが行われた。わたしはスクールに参加できなかったが、このライブはみることが出来たので、感想などを。三輪眞弘さんの”ゼフュロスとメガフォンのための「mega-phone-m」”は演奏者と、トラメガを対峙させた作品。トラメガにはパワーブックがつながっており、演奏者が音を出すと、オウム返しのようにサンプリングされた演奏がトラメガから発せられる。そして、foward!と、トラメガから機械音声が発せられると、演奏者は、一歩前に動く。両者の距離が近くなると、演奏以外のサンプルも鳴り始める。「Why!!!」とか、叫んでる声。なぜ、ホワーイなのだろうか、わたしが、Why!となってしまう。作品の裏にある物語は解らなかった。前に進めといいながら、近づくと、なぜ?と問いかけられる。楽器とメガフォンの関係性によって作り上げられていく音場のなかで、それを否定するようなパロールが行き交う。これは、作曲者の罠なのだろうか、それとも、問いかけなのだろうか。話し相手としての人工知能を極限まで高度化した先には何があるのだろうか?機械との会話の意義とは?人間は自立的な機械の返答というものを望んでいるのだろうか?漠然と思い浮かんだ問い。この作品には、私にはうかがい知れぬ 物語に支配されているのではないかと思った。佐近田展康さんの「Clockwork Voices」は題名とおり、時計仕掛けの歌声。サブタイトルには「機械歌唱とギターのためのNew century Song」とある。ギターをひき始めると、訥々とした、ジプシーのような歌声が、パワーブックから発せられる。ギターは時にバンドネオン、ときにはフラメンコギターのような音色を彩 り、すべてがリアルタイムに展開する。どこか、架空の民族音楽のような響き。ガルデル、ピアソラを思い出す、どこかなつかしい、未来の音楽。この日の演奏の中では個人的には一番楽しめた。10月にはアルバムも出るそうなので、そちらも、今から楽しみです。カール・ストーンはエグゼクティブなビジネスマンが、機内でラップトップを開いて、仕事を始めると言うシチュエーションを演出。座席に座り、パワーブックを開くが、なかなか音が出てこない。すると、外の虫の音がしてくる、静寂。数分間、全くの無音。まさか、コンピューターミュージックの4分33秒?すごいパンクだ!とか考えていると、マックの起動音。この間が、何とも面 白く、苦笑。あとで、知ったことだが、パワーブックがスリープしてしまいソフトがハングしてしまうというトラブルがあったからだということだ。知らなければ、演出の一部だと思った。そして、演奏が始まる。次第に音はラテンチックなハウスとなっていくのだが、のってきそうなところで、ちゃちゃがはいり、なかなか踊らせてはくれない、このもどかしさ。DJでありながら、反DJを繰り広げる。紹介した3人のパフォーマンスだが、いずれも、MAX/MSPというプログラムできる音楽ソフトを使っている。私も使い初めて、2年ほどになるが、使われたパッチ(プログラムのようなものです)は私にとっては複雑なものであるから、直接には勉強になるということはないのだが、音楽を楽しみ、感じることで、創作意欲は刺激されました。こういったライブも、もっと近くで企画されればよいのではと思う今日この頃。
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物語と場〜中上と熊野そしてリアルライフへ
以前、バイタイエ・メーリングリストでも話題になったことに、物語をつむぐ場とい う話があったように思う。最近出た「中上健次と熊野」という本はまさに、物語の場 としての熊野、もっと端的なものでは,新宮という場と、中上健次のかかわりについ て、いままでも語られてきたが,より、物語と場というものに焦点を置いた評論であ る。作家と,作品の中に登場する場所というのは別に中上に限らず,特別な場所、物 語が展開する場という点で必ずといっていいほど,対比されるものである。「特別 な 場」というものを少し考えたいと思う。この対比をradioFlyにあてはめてみると、 「場」とはやはり、ドメイン、サイトと単純に思いつくことができる。なぜなら、そ ここそが,ラジオの発信源であるからだ。しかし、わたしは「ドメイン」というもの が、どう考えても,物語が展開する場とは思えないのである。そこは海で言えば,海 図。地球で言うなら、経度と緯度。つまり見せかけの場所であって,そのものには何 の意味も見出すことができない場所であるように思えてならない。逆に,編工研や、 茂庵といった場所が,作家における「特別な場」となるのではないだろうか。ネット が人に見えないほどに広がりを持つようになれば,なるほど,ボーダーレス、国境が なくなるといわれるほど、身近な、ナイフラ語を使うなら,半径○メートルというも のが、逆に物語性を帯びてくるのではないか。それは作家のアイデンティティや、氣 というもので作り上げられた物語とは違う何かのように思えてならない。ゆえ、「リ アルライフ」というモノローグに惹かれ,気になってしょうがないのではないだろう か。半径○メートルにある物語,あるいは伝説が必要とされる時代はそう遠い先でも ないようだ。
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内省との邂逅
めずらしく、と言うか、久しぶりにスティーブ・キューンの演奏を聴いた。残念ながら、ライブではなく、ジャズ喫茶で流れていたアルバムであるが。このかたは、ピアニストであり、スティーブ・スワロウとの活動などで、日本にも、何回となく来ているので、ご存知の方も多いと思います。いってみれば、「内省的なピアノ」となるのでしょうが、その聴いた演奏というのが、確かに、内へ向かってエナジーが放たれていることには違いがないのだが、もし、魂に、固い殻があるとするならば、その殻をすかして、エナジーがあふれでてくるようなものでした。考えてみれば、「内省」と、形容するのが失礼なのかも知れない。表現者としての音楽家であるからこそ、楽器に向かうのだから、かならず、方向は、外へと向かっているのだと思います。考えてみれば、じぶんへのといかけとは、同時に、他者への問いかけであるのだから。また、その逆も言えるのだろうけど。ともかく、内省的な音楽というのは誤解されやすい。そうじゃないよといってくれる人が多いといいのだが、経験的にいわせてもらえば、暗いとか、肉体的でないとか、インパクトがないなど、何とも、評価が低いのである。これは自分のまわりだけなのかも知れないが、そういったことをいわれる度に、いかに、情熱的で、肉体的な演奏なのかを力説していた時期もありました。情念とは違うんだ。人とのコミュニケーションをたとうとはしていないんだと、くり返していました。そういえば、山形にも、グレングールドのドキュメンタリー映画がリバイバル。彼のことを書き進める内に思いだしたのでした。次回は、この映画について、グールドについて、少し話したいと思います。なにはともあれ、自分はさいきん、町中に流れている、元気でポジティブなそういった表現の仕方には少し疲れるようになって、もっとシンプルなものを求めているのだと思う。ただ、このシンプルというのも、編成や、アレンジとかいったものでなく、そこにある、鈍い光を発しているこじんまりとした魂だと。
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倍音の魅力〜喉歌
わたしが最近、夢中になっているものに喉歌がある。この喉歌とは「ホーメイ」とか、「ホーミー」とかいわれている声のある倍音を強調することによって、一人で、2つの音程で歌う歌唱法なのですが、喉歌という言い方は英語のthloat singingからきています。ある倍音と言うことから、強調できるのは、自身のような低音から、笛のような澄んだ高音まで、様々です。私は今年の3月に、EVさんからやり方を伝授してもらったのですが、その時は全然ダメで、その後、練習しているうちにでるようになり、現在は、中音域から、高音域の2オクターブ超の喉歌が出来るようになりました。そんな、まだまだひよっこが、なぜか、ひとに喉歌を伝授することに。これが、成りゆきというか、ノーといえないナマケモノというか、ともかく、インターネットラジオ「radio Fly」(試験放送中)にて、「やさしいノドウタ」と言う番組をスタートさせました。その第一回目は現在、試験放送中です。聴いてみると、なかなか面 白いですよ。みんな、「ウィ〜〜」 とやってます。最終的にはみんなで、ノドウタ合唱団を結成しようというたくらみです。いつになるのか解りませんが、ぜひともリサイタルを開きたいなー。と、わからん人にはなんだかわかりにくい話ですが、この喉歌の魅力を今、日本でも感じることが出来るのですよ。「トゥバ・クィズィ〜ホーメイ ビューティフル〜」と言うコンサートが、東京 赤坂 国際交流基金フォーラムが8/10に。このほか、国内数カ所で、聴けるのです。あーなんてしあわせなんでしょう。必見です。
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飲んで書いて愛して
わたしはアメリカの作家が好きである。とてもおおざっぱな言いぐさだが、ヘミングウェイ以来、アメリカ文学と言われているものを好む傾向にある。その中でも、3Bといわれる3人の作家は別 格とも言えるほどあらゆる影響を与えてもらった、と言うか、まだ与えられ続けている。そのなかの一人、チャールズ・ブコウスキーの伝記がでたとなったら、何よりも先に読んでみたくなるものだ。ということで、「ブコウスキー伝」河出書房新社を購入した。といっても、まだ読み終わったわけではない。しかし、その本のなかにある、写 真はとてもびっくりした。何しろ、かなりプライベートなものまで含まれているからである。あの偏屈親父が、生きていたならば、「Don't Try」というにちがいない。だが、その写真を見るだけで、ハンクがもっと身近にハンクとなることが出来そうで、のぞきか、ストーカーになった気分で、犯罪度高いぞこれはと、息を潜めて、読み進めていきたくなる、そんな罪作りな本。そして驚く無かれ、この本の著者は一回も、ブコウスキーと会っていないのである。ブコウスキーの知人たちへの取材によって書かれたという事だ。それ故、巻末には取材・出典ノートとなうって、記されていることの裏付けとなることを事細かに書いてある。・・・まるで、ドキュメンタリィ映画のような本だと思った。読み終わったらいずれ、細かくふれることにしようと思う。
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